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2010年6月14日 (月)

南薩線廃線跡サイクリング記(その14)

今日から一週間の始まり。今週もいろいろなことがあってめまぐるしい一週間です。しかし、あくせくしても始まらないので悠然と構えることにしました。手帳に記した本日のタスク。ほとんど消化されない日もあるのですが、本日はことのほか順調に進み、そのほとんどを赤い線で抹消することができました。こんな日は気持ちがいいですね。

いつもより早く退庁することができたので、夕食をとりながらゆっくりEF66のDVDを見ました。昭和43年頃できた機関車とは思えないような秀逸なデザイン。パワフルな出力とともに運転席からの前面見晴らしが素晴らしいですね。機関士の膝より少し上に配置されたメーター類。眼前に広がる運転席眺望は他の追随を許さないのではないでしょうか。

弊鉄道にも同機は1両在籍しています。仕様はJR西日本のブルトレ牽引型です。もうすぐトミックスからEF66100番台が発売になります。JR貨物コンテナ牽引用に1両欲しいところです。が、この不景気で弊鉄道も収入源が著しく、新規導入の資金調達が非常に厳しい状況にあります。

さて、南薩線廃線跡サイクリング記の14回目です。弊HPのトップページに長らく下の画像が貼り付けられています。南薩線の薩摩湖駅の情景です。

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薩摩湖に停車中の丸型キハ100へ向かって歩く3人の子どもたち。ローカル線はいつでも私たちにはっとさせてくれるような癒しの風景を提供してくれます。

薩摩湖は鹿児島交通が観光開発をして、一時期は鹿児島の今で言うリゾート地として栄えました。薩摩湖からほど近いところに設置されたもう一つの駅から薩摩湖対岸まで横断するロープウェイがありました。その立地から南薩線が薩摩湖へのアクセスとしての一翼を担っていたのは間違いありません。

そのロープウェイと南薩線がオーバークロスする部分には、保護柵が設けられていました。薩摩湖に停車中のキハ100のすぐ奥に当たります。しかし、ロープウェイの運用期間はそれほど長くなく、保護柵とロープウェイ駅跡だけがその名残をとどめていたのです。薩摩湖側のロープウェイ駅は既に撤去されていますが、対岸の立ち入り禁止区域にある駅には未だにゴンドラとともに駅が現存しているのではないかと思います。

薩摩湖駅の場所すらわかりにくくなった昨今、保護柵だけは昔のままその姿を見せてくれていました。

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松林の中に、かつての姿をそのままとどめる保護柵。この下を南薩線が、そしてその上をロープウェイが通っていました。こうして見ると、南薩線の第一級の遺構であることが分かります。しかし、今回のサイクリング時にショックなことが起こりました。あるべきところにあるべきものが無いのです。

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目を疑いました。そして、保護柵があった痕跡がどこかにあるのではないかと思い、根元辺りを見てみたのですが、あんなに立派だった保護柵は跡形もなく消え去っていたのです。今年で南薩線が廃線になって26年目、ロープウェイの廃止からはどれだけの月日が経っているのでしょうか。後になって聞いたのですが、鹿児島交通の関係者の方も無くなったことをご存知ないと…。そうするとこれは窃盗なのか。長年放置されてきた知覧線白川駅のレールも窃盗に遭い、貴重な風景が失われた経緯があります。

鮫島氏らの功績により拓かれた南薩線。残念ながらその偉業を後世に伝える案内板などが沿線には皆無といってよい状況です。各駅があった場所や主な遺構にはその旨を伝える案内があってしかるべきだと思います。今回の保護柵にしても、鹿児島交通時代に設置されたものだとしても、歴史の1ページとして近代化遺産のひとつとして文化財的な扱いで案内板でも立てて大切にしていたならば、盗難に遭うようなこともなかったのではないかと思われます。

返す返すも惜しいことをしたと思います。

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この保護柵は古レールを組み合わせて造られていました。規格の低い細いレールです。よく見ると、レールの表面がかなり摩耗していることが分かります。どこで使われていたレールか分かりませんが、それが分かれば、ますますその価値はゆるぎないものになるでしょう。

加世田のバスターミナル付近に保存されている車両たちも放置状態に近く、年々その状態が悪化してきています。このまままでは南薩線の貴重な生き証人たちが櫛の歯が欠けるように失われていくおそれがあります。関係機関には、早い時期に何らかの対策を講じて欲しいと願っています。

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コメント

廃線跡サイクリング記、興味深く拝見しております。
ロープウェイ保護柵、消失は残念な限りです。
存在する頃に現物を確認した際、カーネギー社(米国)製、1913(大正2)年と読み取れましたから、創業時に輸入、敷設されたレールと想像します。
その後、国産のレールが使われるようになると、廃レールは構造物などに活用されました。
JRや、古くからある私鉄などでは、現在もこうした遺構が残っている箇所も多くありますから、余計に残念でなりません。

投稿: hvcc | 2010年6月15日 (火) 19時01分

HVCCさん、やはりそうでしたか。貴重なレールを使った遺構だったんですね。廃止時に記念品としてレールの輪切りを加工したものを創業時の貴重なレールであるカーネギー社製のものであるとアナウンスして販売していました。笠沙恵比寿での「蘇る南薩鉄道の記憶」展でも展示されていましたね。もちろん私も当時結構な値段だったのですが、購入しました。ものの価値というものは、それに対する人の感性に大きく左右されるものですが、今回の保護柵の消失は本当に残念でなりません。あのような形でうち捨てられたようになっていたら、鉄イコールお金として見えない輩の格好の餌食になるのは時間の問題だったのかもしれません。肥薩線大畑駅の奥の方にある線路には1900年代初頭の刻印があり、驚いたことがあります。普段使われない引き込み区間にあることが幸いして開通当時のレールが残されているようです。

投稿: Nakachan | 2010年6月16日 (水) 02時47分

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