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2010年10月29日 (金)

あの頃の鹿児島(第2回)

台風14号が接近し、心配をしました。幸い奄美大島を避け、当地でも東寄のコースをとったため全く台風を感じないまま去っていきました。東を通ると時計と反対回りに吹き込む台風の風と台風の進行速度が相殺され、風が弱くなります。もう何年も台風がやってきません。有り難いことですが、地球の気候変動と関係がありそうで不安にもなります。

さて、あの頃の鹿児島第2回目です。

未舗装道路

今や林道にでも行かなければお目にかかれなくなった未舗装道路。しかし、昭和40年代前半の頃までは鹿児島市内といえども舗装されているのはメインとなる通りばかりで毛細血管のように張り巡らされた住宅街の道路は未舗装でした。今からは想像もできないことですが、戦後20年ほどしか経っていない頃ですからまだまだ整備途上にあったといえます。車も今のように一人に1台というような時代ではなく、台数も少なかったので車が走るための道というよりは歩行者のための道といったほうがよかったのかもしれません。

自宅の前の道路ももちろん未舗装道路。でこぼこしており、小さなへこみは車が通ることでその大きさを増していき、雨ともなれば大きな水たまりと化するのでした。雨の日にはまっすぐ歩くことはできません。大小の水たまりを避けながら右へ左へ。雨が上がると大きな水たまりにアメンボウの波紋を見ることも。

鹿児島市内のメインを外れた道路が未舗装であった頃、地方の主要な道路にも未舗装区間は結構ありました。道路改良する前の古い道路ですから狭くカーブも多く速度はのりませんし、よく揺れます。また、車に冷房が付いていませんので、夏は結構暑い。先行車がいようものなら巻き上げる砂埃で窓を開けることもままなりません。

私の母は、観光地である霧島に行くのをあまりよしとしていませんでした。その理由は道路。今でこそ快適なドライブコースが続いていますが、当時は恐ろしくなるような崖の上を狭い道路が通っており怖くて仕方がなかったと言います。

ですから道路事情からして、また車自体の快適性からして車は長距離を移動する手段として選択肢の中にはなく、もっぱら鉄道が陸上長距離交通の主役だったわけです。

今、快適な幹線道路を走りながら、途中途中にある旧道であったり旧道の跡であったりする道路を目にすると、この幹線がかつてはこんな道でつながっていたんだとその歴史を垣間見る思いがします。鉄道の廃線跡巡りが静かなブームです。書店で旧道巡りの本を目にしたこともありましたしネット上で見た覚えもありますので、鉄道同様こちらの方を趣味としている方もいらっしゃるのでしょう。

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コメント

「未舗装道路」。確かに(記憶は皆無ですが)玉江橋から鹿児島女子高に至るでこぼこ道を歩いている3歳当時の白黒写真が残っています。まだ伊敷中の反対側も春にはレンゲ草の咲く田んぼでした。昭和47年頃の市電上塩屋~谷山付近も田畑が広がり、木造の待合所が有った谷山電停も懐かしい思い出です。

投稿: 夢幻鉄道 | 2010年10月31日 (日) 01時47分

鹿児島市内中心部から市街地化がどんどん広がっていき、山も切り崩して宅地造成をしていった経緯があります。おっしゃるとおり谷山と鹿児島は合併後も間に田んぼが広がり、街としてはつながっていなかったですね。谷山の商店街がかつて独立した街であったことを物語っています。
関連した鹿児島の様子をお寄せいただきありがとうございます。

投稿: Nakachan | 2010年10月31日 (日) 10時47分

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