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2010年12月15日 (水)

あの頃の鹿児島(第9回)

今日は寒い日でした。ニュースで真冬並みの寒さと表現していました。もう12月も中旬、真冬とはいったいいつ頃を指すのだろうかと思うことでした。

さて、あの頃の鹿児島第9回です。

マーケットとぶっしぶ

今のようなスーパーはまだ近くにはなく、いわゆるマーケットと呼んでいた個人商店が寄り集まった木造の建物が二つ肩を寄せ合うように建っており、食材の調達はほとんどがここでした。

手前のマーケットは中央に通路があり、未舗装の歩道に面したところの左側に衣服とお菓子を扱うお店、その通路向かいに果物とアイスクリーム、中へ入っていくと左に乾物屋その向かいに魚屋といった具合です。

その隣のマーケットは同じく中央に通路があり、左に八百屋さん、右に果物と飲み物、その隣に駄菓子屋さん、その奥はもう記憶にありません。それぞれのお店に商店主が夫婦でいることが普通で、何とも人間くさい空間でありました。

買い物かごを下げて母は毎日の日課としてこのマーケットに通いました。道路の角を一回折れるだけで1分ほどの距離。料理中でもちょっと買い足しに走るということができました。私もお使いにときどき行きました。

遠足のおやつもここで買いました。それほど種類の多くない菓子の中から選び、予算の100円を超えないように選んで買ったものです。

学校が終わると母からいつも10円をもらい、奥のマーケットの入り口から二軒目にある駄菓子屋へ。駄菓子屋のことを当時は「くじや」と呼んでいました。くじがたくさん置いてあったからです。子どもが3人も入ればいっぱいになるような店。でもところ狭しと置かれたくじや駄菓子、小さなおもちゃは子どもの好奇心を引きつけるには十分でした。

くじは5円のものと10円のものがありました。10円持って行きますから5円のものを2種類ひくことが多かったように思います。大きな台紙にぶら下がった甘納豆の小袋。上の方には大小の袋がぶら下がり、小袋の甘納豆の中に入っている当たり券で大きな袋をもらうことができました。小袋が少なくなっているのに大小の袋がまだ多くぶら下がっているときは当たる確率が高くなります。でもなかなか当たるものではありませんでした。箱の中に入っている丸い飴のようなものを丸いビニール製チューブを押し込んで取り出すものもありました。取り出したものの色によって当たり外れが決まるものでした。箱から出ている多くのひもの中から選んで引き出すというものもありました。円錐形の飴がぶら下がって付いてきました。大きなものをつり上げると当たりということになります。ほかにもいろいろありましたね。

くじやさんの隣の飲み物を売っている店では、ラムネをよく買いました。おじちゃんがぽんと抜いてくれたよく冷えたラムネをその容器のからくりを楽しみながら飲んだものです。

それからときどき母が買い物に行っていたのが「ぶっしぶ」というところ。「ちょっとぶっしぶに買い物にいってくるね」と言って出かけていきました。「ぶっしぶ」が「物資部」であることを知ったのはかなり経ってからのことです。

すぐ近くに国鉄官舎がありました。5階建てほどの官舎が6棟並んでおり、私が通っていた学校にもお父さんが国鉄に勤めているという人が多くいました。その片隅に国鉄の物資部がありました。国鉄官舎の住人の利便性のためにお店が設けられていたのです。この店は一般の人たちにも開放されており、母も時々ここで買い物をしていました。スレートでできた平屋建てで今で言うお店らしいお店ではなく倉庫のようなところでした。内輪向けのお店でしたので外観はどうでもよかったのでしょう。

生活用品の販売の他に今で言うツアーの募集もときどき行っていたようです。母からの勧めで2回ほど参加したことがあります。

ひとつは霧島へのカブトムシ・クワガタとりと魚つかみどり日帰りツアー。小学生でしたが一人で参加しました。バスは中乗りタイプの国鉄バス。2台だったのか3台だったのか記憶はあいまいです。カブトムシやクワガタは全然とれなかったのですが、水を減らした養殖場の池で大きなこいを一匹つかみあげることができました。大きなビニール袋に酸素を注入し生きたまま持ち帰ることになりました。途中、霧島神宮前だったと思うのですが、ここでアイスクリームが配られたのを今でも鮮明に覚えています。やはり子どもにとって食べ物というのはインパクトがあるのでしょうか。持ち帰ったこいは早速父が庭でさばいてくれました。

もうひとつは燃島ツアー。燃島(もえじま)は桜島の北東,姶良カルデラの中にあり桜島の安永噴火(1779年)の際に海底が隆起して島となったものです。桜島の噴火に伴い出現した島なので燃島の名があるようです。新島(にいじま)ともいいます。また宝島という呼び名もあるようです。浸食が進み、次第に小さくなっていく島の様子から「消えゆく島」という異名もあります。小さいですが、人が住む有人島です。ここへの日帰りツアーです。今回も一人で参加。船は鹿児島港から出ました。漁船に毛が生えたような小さな客船。ちゃんと旅客用の船室がありました。こちらも2隻ないし3隻ほど出たと思います。船と言えば桜島フェリーぐらいしか乗ったことがない頃でした。いつもと違う場所を波しぶきを上げて進む小さな船旅を甲板上で楽しみました。燃島に上陸したことは確かな記憶としてありますが、そこで何をしたかの記憶の扉を開くことはできませんでした。

余計なつけたしが多くなってしまいました。今日では流通の変化で小さな生活圏ごとにあった個人商店が集まったマーケットはその多くが姿を消しました。もちろん国鉄物資部もその母体そのものがなくなってしまいました。

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コメント

管理人様、こんばんは。待望の第9弾、「ぶっしぶ」とは?と容量不足の脳内メモリに問いながら読み進めました。マーケット、平成生まれの若人諸君は「リサーチ系」か「株式系」しか浮かばないでしょうね。(鹿児島市の)メジャーな処では厚生・城南・甲南辺りが、民放局が有る団地にも小規模なのが有りましたが今や駄菓子屋さんすら見かけません。駄菓子屋と言えば「仮面ライダースナック」と「ヨーヨー」、前者は日本中で社会問題化したオマケ目当てで(まずい)スナックはポイ捨て。その当事者の一人であった小生は反省・更正しecoやリサイクルに(微)協力。後者は某大手清涼飲料メーカーが仕掛けた販促グッズ、赤いのは高くて買えず安目なフ○○タで犬の散歩(技)に挑戦しておりました。○月○日に「世界チャンピオンが来店」と子供騙しの貼紙に騙された子供の一人です。「ぶっしぶ」、確か浜町と武の西口に有ったJNRストアを表す暗号でしたか懐かしいですねぇ!素っ気ない外観が如何にもコクテツらしかった様な。コンビニもホット弁当屋も無かった時代、マーケットや個人商店は母親達の・駄菓子屋は子供達の社交場でした。(見せるだけの)「山形屋デパート」の帰途、ナヤ通りの電停側入り口に店を構えていた『浦島屋』で(母親が)買っていた「ひじきの煮物」は今も大好物。当世、セルフサービスのレジやGSも珍しくなくなりましたが個性的な商店で一癖あるオジさん・オバさんが(お節介?な)接客をしていた頃がチョッピリ恋しいです。最後に(図々しくも)管理人様へのリクエスト、昔よく見かけた自販機なんて如何でしょう。駄菓子屋に必ず置いてあった10円ゲーム機も『善き「昭和」のラプソディ』」ですが、。

投稿: 夢幻鉄道 | 2010年12月17日 (金) 22時30分

夢幻鉄道様、いつもコメントありがとうございます。母が買い物をしていた物資部があった国鉄官舎もその後JRの社宅として使われていましたが、次々に解体され今はマンションになっています。私が子どもの頃に建設の様子を興味深く見ていた最後の棟もついに無人状態となり解体を待つばかりです。武の管理局や車掌区がある辺りに物資部がありましたね。新たな記憶が蘇りました。仮面ライダースナックは問題になりましたね。私が通っていた小学校のゴミ捨て場に仮面ライダースナックが1カートン丸ごと捨てられていて大問題になりました。ヨーヨーもありましたね。懐かしいなあ。個人商店の映画で見るような人情も味わい深いものでしたね。10円ゲーム機。私はどちらかというと物でないものにお金を払うということに抵抗を感じる性分で、お金を払ってやるゲームにはほとんど手を出さない子どもでした。あれ、どんなものだったっけ。ネットで調べてみました。東京板橋に駄菓子屋ゲーム博物館というのがありました。見てみると、懐かしい物ばかり。そこで遊ぶ平成の子どもたちもどことなく昭和の香りが漂う子どもに見えてくるのも不思議な感覚でした。

投稿: Nakachan | 2010年12月18日 (土) 07時55分

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