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2011年1月17日 (月)

あの頃の鹿児島(第11回)

まるで冷凍庫に入ったような寒さが続いています。温暖化で厳しい冬の寒さが感じられなくなった昨今、久々に子どもの頃の寒さを思い出しています。鹿児島市内でも霜柱が立ち、学校の大きな池にも厚い氷が張ることがある冬でした。今では氷が張るようなことはめったになくなっています。さて、そんな厚い氷が張っていた頃、あの頃の鹿児島第11回です。

鹿児島本線複線化工事の頃

昭和40年代前半、非電化単線だった鹿児島本線西鹿児島口の複線電化が行われました。その頃のことを思い出してみたいと思います。

自宅近くの新上橋。石工岩永三五郎が手がけた4連アーチの石橋新上橋があり、国道3号線には鹿児島市交通局の市電も走っていました。単線の築堤区間だった新上橋付近では複線電化工事が行われていました。列車の運行を行いながらの工事です。プープーという電子的な音が聞こえると間もなく列車がやってきました。列車接近を知らせる合図が工事区間では鳴り響いていました。やってくる列車はもちろん蒸気機関車牽引列車やDCなど。まだ、鹿児島本線でもC60やC61、D51が走っていた時代です。

自宅からほど近いところにあり、自転車で線路のあるところを訪ね回っていた頃ですので、今でも鮮明にあの「プープー」という音を覚えています。

小学生のとき、列車に乗っていく遠足が1回だけありました。列車好きな先生がいたのでしょうか。学校から西鹿児島駅まで徒歩で移動し、そこから列車に乗り込みました。中学年の頃だったと思います。西鹿児島駅のホームで列車が来るのをしゃがんで待っていたことを今でも覚えています。駅構内には架線を張る真新しいビームが設置されており、鉄道の近代化が着実に進んでいることを子どもながらに感じました。乗車したのはキハでした。1学年7学級から8学級ありましたので、300人ほど乗車したことになります。

途中、旧広木トンネルに入るときに右手に真新しいコンクリート製の大きなトンネル工事がなされているのが見えました。広木トンネルを抜けると広木信号場に停車。振り返ると先ほどの新しいトンネルの反対側が見えました。

帰りの列車は蒸気機関車が牽引する客車列車。大柄なカマでしたのでC61かC60だったと思います。

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コメント

管理人様、こんばんは。先日は「Tバースト」されたとの事、私も1度経験しました。よりにもよって高速道で、アノ感覚は体験した人にしか解らないでしょうが垂直尾翼をモガレたエアプレーンみたくコントロール不能状態に。幸い何とか路肩に寄せて事なきを得ましたがソレ以来「教習所で習ったはずの」運行前点検を自然に実施しております。安全運行と言えばシンカンセンのATCシステム、我々の自家用運転は最低限1人の責任で済みますが何百人という乗客の生命を守るのが最重要命題の営業鉄道(交通機関)。未だ痛ましい事故が起こっていないのは現役(現業)職員諸氏が日頃の点検を怠らず日夜、車輛と軌道の目視チェックを積み重ねている努力の賜物だと頭が下がると共に(故)島技師長以下の先人がスピードよりもセーフティーを優先した成果で有ると敬服させられます。え~「本題」に関するコメントを書きたいのですが今回はパスします。当時の記憶で覚えているのは鴨池空港のサーチライト位ですので。

投稿: 夢幻鉄道 | 2011年1月19日 (水) 21時50分

夢幻鉄道様もバーストしたことがあられるのですね。高速道路でのそれは命に関わる事象。事なきを得て幸いでした。どんなに技術が進んでも最終的に安全を支えているのは人間ですものね。新幹線開業以来乗客の死亡事故ゼロは奇跡的な数字だと思います。安全のシステムが完全な形で機能しているからだと思いますし、新幹線を支えている人たちの誇りもそうした毎日の安全に対する取組を支えているのかもしれませんね。

投稿: Nakachan | 2011年1月20日 (木) 00時01分

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