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2011年1月21日 (金)

あの頃の鹿児島(第12回)

鹿児島県日置市日吉町日置3314、なんとも南薩線の香りがしてきそうな住所です。これは今日封を切った焼酎に記されていた住所。小正醸造の「小鶴黄麹」を飲んでみました。CMでよく見かける焼酎です。独特の風味がありました。焼酎も醸造元や銘柄でずいぶん味が違うものです。これまで一つの銘柄を飲み続けることが多かったのですが、いろいろな銘柄の焼酎を楽しむことにし、酒屋で選ぶ楽しみもできました。

さて、あの頃の鹿児島第12回です。

大島紬の糸を干す

あの頃、町中には個人経営の小さな工場や作業場が多くありました。人の働く姿が身近な生活空間の中にあり、それを垣間見るのも子どもの頃の楽しみでありました。建具屋、表具屋、家具工場、製麺工場、畳屋、自動車工場など近くにたくさんの働き場を見ることができました。

そんな中、当時未舗装だった道路に支柱を立て、多くの糸をぴんと張って干す様子をあちこちで見ることができました。大島紬の糸を干す作業です。

大島紬は1本1本の糸が縦横に織られていったときに模様が浮き上がるようにあらかじめ縦糸と横糸が実に絶妙に染められています。設計図にあたる緻密な図面があり、それに基づいて16本ほどのりで固められた糸を締機(しめばた)を使って糸で締めた上で染めていきます。締めた部分は泥染めされません。白く残った部分は後で手作業で色をすり込んでいきます。これで出来上がった1本1本の糸を縦糸と横糸の交差を合わせながら文様になるように紡いでいきます。まったく気の遠くなるような職人芸です。

このような作業工程の中で、糸を必要な本数束ねてのり付けする作業があります。のり付けした後、ぴんと張って天日に干す作業が道路でも普通に行われていたのです。引っ張りすぎずまんべんなく天日に干す作業は、天気との兼ね合いを考えながらの熟練の作業だったそうです。また、染色が終わった糸ののりを洗い流し、その後干す作業もあったのではないかと思います。

大島紬の作業工程についてはあまり詳しく知りませんので、違っている部分があるかもしれません。

あの頃はあちらこちらでこのような光景が見られ、生活空間の中で伝統工芸品が作られていました。

大島紬の需要は年々減り、鹿児島にあった大手の工場も撤退し、マンションが建ったり量販店になったり…。産業道路沿いのビッグⅡの建物が大島紬の機械織りの工場だったということを知る人も少なくなってきているのではないでしょうか。

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コメント

4連続投稿は流石に気が引けましたが楽しみなコノ「シリーズ」。折しも南日紙に紬生産量の推移グラフと解説が掲載、私達がアチコチの空き地で糸干し情景を見かけていた70年代がピークだったみたいですね。糸と言えば冬休みになると(自作の)凧を造りました。小学校の校庭や原っぱでは皆少しでも高く揚がる様に競い合っていた記憶があります。コマ廻しやビー玉遊び、高価な玩具は無くても充分に楽しめました。紬も本来の魅力を残しながら日常生活に使える廉価品を開発すれば観光客や県民にも受け入れられると思います。時折り真砂・三和町界隈へ撮影兼探険をしておりますが意味不明な島口が飛び交う狭い路地裏には今も昭和が満ち溢れているのが嬉しい限りです。

投稿: 夢幻鉄道 | 2011年1月23日 (日) 12時28分

ここまで進んでいたのかという凋落ぶりに驚きました。もはや地場産業とはいえないような状況です。これも時代なのでしょうか。おっしゃる通りたこ揚げなど正月らしい遊びをする子どもも見かけなくなりました。小学校などで行うたこ揚げ集会で揚げるのが唯一の機会という子どもも多いと思います。コマを回す子もいませんね。真砂や三和町は奄美からの移住された方が多く、その当時の面影を色濃く残していますね。名山堀と並んで魅力ある町。ファインダーを覗くとそこにはタイムスリップしたような光景が…。

投稿: Nakachan | 2011年1月24日 (月) 18時41分

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