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2011年2月 7日 (月)

天賞堂からカンタムサウンドキハ52

ネットを見ていましたらヨコハマ鉄道模型フェスタ2011の様子がアップされていました。その中に天賞堂のキハ52 0番台の試作品の画像がありました。プラ製なのはこれまでの同社の気動車と同じ仕様ですが、カンタムサウンド搭載とあります。実は、これまで弊ブログへアクセスしてくださる方の中に「天賞堂キハ52」で検索してたどり着いた方が多くいらっしゃったのです。何故だろうという疑問がこれで解けました。

同社のホームページでもまったくアナウンスされていない企画で寝耳に水。カンタムサウンド搭載車両となしの車両があるようです。マイクロエースからも同じキハ52 0番台が発売されます。マイクロエースの製品は当初の計画よりかなり発売が遅れる模様ですが、かち合うことになってしまいました。

天賞堂のスハ32系もアクラスとかち合い、カトーとトミックスも24系25形0番台でかち合い、トミックスが24系0番台の製品化に変更したといういきさつがあります。

メーカー同士、他社の動きには神経を使っているとは思いますが、最近このような同時期に同じ製品を企画してしまうことが重なっています。互いに事前調整ということもできないと思いますので、関係者の心労はいかばかりかと思います。

マイクロエースのキハ52の予約を考えていたのですが、またまた思案を要することになってしまいました。アイドリングしながら停車しているキハ52は酒の肴にももってこいのような気もしますし…。

さて、今日は帰宅後、模型いじりの基礎資料集めをしました。475系を考えていましたが、ブルトレの14系15形があることを思い出し、こちらから先に作業をすることにしました。

14系15形は1978(昭和53)年デビューの分散源現方式の車両で車体は同時期にデビューした集中電源方式の24系25形に準じています。新製後、63両すべてが早岐客貨車区に配置。新大阪・長崎・佐世保間の「あかつき」として活躍を始めます。その後向日町運転所に転属し、あかつきに加え、「明星」(新大阪・西鹿児島間)、「彗星」(新大阪・都城間)での運用にもつきます。JR化前後には一部の車両が再び九州に転じ「さくら」や「みずほ」として活躍することになります。

模型の設定は、鹿児島にゆかりのある列車として「明星」とすることにしました。この列車には乗車したことあります。年代は1984年頃。新大阪から西鹿児島行き「明星」と長崎行き「あかつき」が併結されていた頃の列車。「明星」が7両、「あかつき」が6両の合計13両編成。鳥栖・西鹿児島間で「明星」として単独運転していた区間を再現することに。ということで7両編成です。

向日町運転所所属の7両編成。同運転所にはオハネ15が42両、スハネフ15が21両の配置。すべて欠番なしの1番からの連番です。結局、早岐時代に「あかつき2号」として運転実績のある編成で組むことにしました。1号車からスハネフ15-21+オハネ15-31+オハネ15-32+オハネ15-35+オハネ15-22+オハネ15-25+オハネフ15-20です。

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コメント

管理人様、こんばんは。夕刻より少し小雨がぱらつきましたが昨日に続き小春日和の日中でした。突然ですが管理人様が最初に鉄道写真を写されたのは何時、何処でだったでしょうか?。小生は78年小5の冬休み、田舎の出水駅。が停車列車や側線で休む車輛ばかりで少し物足りないデビューでした。颯爽?と走る列車を撮りたいとテツ友達を誘い誘われ出掛けたのは翌年(中学校進学前の)春の午後。唐湊から操車場沿いに歩き決まったポイントが武小付近、カゴシマでは一番無難で効率の良い地点(ですョね!?)。何故か先頭部分だけがUPされたモノばかりで「編成」と言う概念が見事に欠落したスナップが唯一の「国鉄」走行写真になりました。進学後は体育会系部活動に夢中となり気が付けば国鉄も山野線も消えていて愕然。未だ衰えぬ鉄道への執着はソノ反省と反動が根源です。武の三角ポイントにつきましては又の機会に、語り出せばキリが有りません。

投稿: 夢幻鉄道 | 2011年2月 8日 (火) 23時12分

そうですね、71年頃だったと思います。父のカメラを借りて西鹿児島駅や鹿児島運転所でちょっぴり撮っています。蒸気機関車を撮ったつもりではないのですが、煙が当たり前のように写っていたのは時代だったのでしょう。走行写真を初めて撮ったのは指宿・山川間の踏切です。急行「錦江」だったのでしょうか。置きピンという技も知らず、走ってくる列車に必死でピントを合わせたの覚えています。まだ指宿枕崎線にC12の貨物列車が運転されていた時代です。高校に入り、2年生のころ初めて一眼レフを手にしました。最初に撮った場所は武小前の踏切です。走行写真を撮るに一番適した場所でした。鹿児島の鉄分人にとってこの場所は通らなければならない門だったのでしょうか。

投稿: Nakachan | 2011年2月 9日 (水) 00時01分

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