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2011年5月19日 (木)

撮影名所?

どうも最近、知覧線に縁があるようで今日も知覧線沿線の町で研修会が行われました。加世田から国道沿いに川辺まで行きました。万之瀬川が流れ、途中に九州電力の水力発電所があり少々の高低差はありますが、いたって明るく平坦な道です。知覧線は阿多から白川へ向かい山手を選ぶようにして川辺まで敷かれました。国道沿いのルートの方が負担にならないような気もするのですが、どのようないきさつがあって路線設定がなされたのか興味があるところです。

知覧線寄り道記。東川辺の知覧寄りの低い路盤です。ゆるやかに大きくカーブを描きながら途中から勾配へとかかります。白川付近では築堤の側面が石垣により施工されています。ここ東川辺の知覧寄りも低い築堤ではありますが、同様に石垣による処理がなされています。平地にありながらこの付近の路盤は失われることなく、当時の雰囲気をよく現在に伝えています。もし現在でも列車が走っていたならよい撮影ポイントになりそうです。初夏の緑がさわやかでした。

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コメント

(前略)「何故、薩南中央鉄道は加世田を接続駅にしなかったのだろう?」管理人様と同じく私も【知覧線】を初めて知った際に感じた疑問です。当初は別会社だったとは言え敷設に係る費用や車輛の運用・点検等を考えると加世田から田部田を通した方が得策だったのでは?と。ただ車で阿多・川辺と加世田・川辺を実際に走り較べてみますと前者の方が集落も多く又川辺や知覧に住む人々からすれば産物を少しでも早く送る事が可能で且県都や県外に行けるルートをとりたいでしょうから。そして何より加世田地域への対抗心も作用したのでは?と推察致します。何処とは申しませんが現代の県内でも隣り合わせなのに仲良く出来ない地域が多々あるような。俗に難解と言われる鹿児島弁も更に土地に依って表現やイントネーションが異なるのは管理人様もよく御存じの通り。離島は別にして南薩と北薩では大同小異だらけ、ただ最近のママさん達は標準語教育に熱心な様で。かく言う小生も県外の方と話したり県境を越えると無理して語尾を上げてしまいます「ご○○○なァ」を「そうですねッ」に変えて。《『ジゴ』が出たり引っ込んだり》して参りましたので此辺りで失礼申し上げます。『』内の意味は上品な県都では通用しないみたいです。

投稿: 夢幻鉄道 | 2011年5月21日 (土) 20時43分

知覧線路線設定の謎について確認してみました。大正9年10月に川辺郡長の呼びかけで郡鉄道期生同盟会が発足し、川辺から知覧を経てさらに延びる路線と薩摩大崎から大浦を経て坊津へ至る路線の実現に向けて動き出したとあります。現実のものとして動き出したのが知覧線の方。後に薩南中央鉄道として運行を始める路線でした。期生同盟会の呼びかけに対して加世田は乗り気ではなかった。これまで加世田で乗り換えて川辺や知覧へ行っていた乗客が加世田から鉄道が延びると素通りしてしまうということが理由だったようです。煮え切らない加世田、そして当時省線移管問題で駅の存続が危ぶまれていた阿多。乗換駅になれば駅は存続できるという阿多からの誘いに乗る形で翌10年には阿多を起点とする路線に決定したとのことです。

投稿: Nakachan | 2011年5月22日 (日) 06時37分

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