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2011年6月11日 (土)

薩摩白川駅前

今日は嵐のような天気。お陰で傘を一本だめにしてしまいました。といってもこの傘、1本500円の安物。見た感じはよいのですが、安かろう悪かろうで傘を差すと中心部から水漏れ、水漏れによって金属部から錆が発生、それにより錆が混ざった水が手元に流れてくるという代物。たたんだときのロックもかかりにくく、さらにくるっと巻いて固定するマジックテープも次第にくっつきにくくなるという粗悪品の見本のようなものでした。いくら風が強いと言ってもすぐに裏返ってぽきっといったのは、構造部材の設計や素材の悪さからくるものだったのかもしれません。500円ですから自業自得です。

知覧線寄り道記。薩摩白川駅の駅前商店です。古いたばこの表示が郷愁をそそります。近くには白川小学校もあり、昨年創立130周年を迎えました。しかし、児童数はかなり少なく、複式学級にて授業を行っているようです。薩摩白川駅の開業は1927年(昭和2年)6月1日。現在は南さつま市金峰町白川ですが、当時は阿多村白川でした。白川の中心として多くの児童が学校に通い、この辺りも賑わっていたのではないでしょうか。

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南薩鉄道」カテゴリの記事

コメント

管理人様
知覧線の探訪を興味深く拝見いたしております。佐々良トンネルも健在で、近年の切り売りが激しい南薩線をそのうち抜く存在になるかもしれないと考えるほどです。白川のホームは埋もれてしまい、ここに駅があったことさえ風化しようとしていますが、当時は大変賑わっていたものと思います。このようなのどかな風景ではなかったのかもしれません。駅名の入ったバス停が残っているのが阿多のバス停とともに嬉しい存在ですが、標識のデザインで下部の赤い色が白く変わってしまっているのがやや残念です。
 
手持ちの資料を見てみると、知覧線開業時には阿多村の小学校は阿多尋常・高等(阿多村宮崎)、大田尋常(阿多村浦之名)、白川尋常(阿多村白川)の3校のみのはずで、多くの小学生や中学生が白川駅を利用して列車で通っていた姿が想像されます。この時代は阿多尋常小学校の約600名に対して白川尋常小学校が250名程度であり、やや小規模とはいえ現在からは考えられない大勢の児童が通っていたようです。ちなみに南薩線沿線含めた日置郡では伊集院を除いて、最大規模なのは伊作(伊作町中原)と多布施(田布施村尾下、小学校名は”多”で始まるようです)で尋常のみで900名前後、高等を含めるといずれも1100名を突破する勢いであった記録が残っています。前者は大正末期に新築された木造二階建ての建物がたしか昭和50年代の初めまでは伊作駅の近くに残っていた姿を、駅の列車ととともに南吹上浜寄りから望遠レンズで圧縮して撮影した写真が手元にあります。最近の国力の衰えをあらためて認識させる当時の大きな数字ですが、この頃の多くの小学生がやがて間違った方向へと導かれて戦争に巻き込まれてゆくのも知らずに、毎日元気に列車に乗っていた姿を想像するにつけて、一抹の寂しさを感じざるを得ません。

投稿: なんさってっとう | 2011年6月12日 (日) 00時01分

”多布施”-->”多夫施”です。訂正させていただきます。

投稿: なんさってっとう | 2011年6月12日 (日) 00時08分

なんさってっとう様、いつも参考になるコメントをありがとうございます。今では想像もできい児童数です。世帯数が多かったことや、一人の母親が10名ほどの子どもを産んでいたことを思えば、その時代の勢いを児童数からうかがい知ることができます。規格大量生産が始まり、都市への一極集中が始まった頃から都会の繁栄とは裏腹に地方の衰退がじわじわと進み、このような寂しい風景が点在する結果となりました。学校の統合も急速に進んでおり、学校が無くなった地域のますますの衰退を地域住民は懸念しているようです。

投稿: Nakachan | 2011年6月12日 (日) 09時40分

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