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2017年12月30日 (土)

昔の西鹿児島駅界隈

 鉄道ジャーナル2月号に「『旧型客車』の真実 高崎車両センターの客車7両 21世紀への適応と昭和の香り」という記事があり、旧型客車を偲びながら読み進めていきました。冒頭の定義に触れる部分で旧型客車の長所として「「1両単位の運用が可能で、列車の使命や性格に合わせて車内設備や等級の異なる車両を自由に連結することができ、車両の向きに制約がないのも客車の長所であった」と記されていました。これぞ荷物車や郵便車も含めて旧型客車の運用面でのおもしろさ。35系や43系、10系客車などが混結できたのもこの長所ゆえ。国鉄時代は全国的な転配が行われたり長距離列車や長距離運用の客車がいたりしましたので、駅で所属表記を確かめる楽しさがありました。

 昨日所用で出掛けた際、鹿児島中央駅の西口側の市道を通りました。往復とも頭上の高架を中央駅に出入りする新幹線がゆっくりと通り過ぎていきました。旧型客車が当たり前のように運用されていた時代からするとまるで未来都市に来たかのようです。

 子どものころも同じ場所をよく通りました。市道から西口を見ると開けた風景の中に木製の電柱が並んでいたのを記憶しています。その頃の風景と比べると同じ場所であるとは信じがたいほど変貌しています。
 さて、鹿児島本線が電化され西鹿児島駅に地下道が出来た頃には西口はあったのですが、それ以前はどうだったのでしょうか。ふと疑問がわき、国土地理院の航空写真閲覧サービスの画像で分かるのではないかと調べてみました。
 1962年(昭和37)の画像がありました。鹿児島市内のほぼ全貌が1枚の画像の中に収められていました。興味津々、鉄道沿線を中心に見ていきました。鹿児島駅には鹿児島機関区の扇状庫があり、広い構内には貨車とともに客車編成らしき長い帯も見えました。目を西鹿児島駅南方に向けてみますと、鹿児島工場はあるものの鹿児島運転所は影も形もありません。鹿児島本線も単線。時代を感じます。西鹿児島駅前の交差点はロータリーにより車の流れをコントロールしているようです。ウィキメディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%A7%85に当時のロータリーの写真が掲載されていました。
 さて、地下道ができる前の西口ですが、東口からつながる跨線橋が西端の線路外側まで延び、建物らしきものへと階段が続いているようですので、存在していたようです。また、現在の中央駅西口広場に相当する広場も確認できますので、駅前広場を有した西口として早い段階から整備されていたのかもしれません。

なお、前出のウィキメディアには1974年の西鹿児島駅の航空写真が掲載されています。これを見ると当然跨線橋は撤去されてありませんが、荷物をつるして運ぶためのテルハが写っています。冒頭の鉄道ジャーナルにもテルハの記事が載っていました。そしてそこで資料として紹介されていたのが1970年(昭和45)の都城での写真。荷物を満載した台車がホームに停車中の10系客車の上を移動している様子が写っています。列車は満員のようで見送り客も姿も。小さな資料写真ですが古き良き時代の鉄道風景に接することができました。ナハ10のサボには「京都行」と記されていますので、都城始発の急行日南ではないかと思われます。

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