今日は寒い日でした。ニュースで真冬並みの寒さと表現していました。もう12月も中旬、真冬とはいったいいつ頃を指すのだろうかと思うことでした。
さて、あの頃の鹿児島第9回です。
マーケットとぶっしぶ
今のようなスーパーはまだ近くにはなく、いわゆるマーケットと呼んでいた個人商店が寄り集まった木造の建物が二つ肩を寄せ合うように建っており、食材の調達はほとんどがここでした。
手前のマーケットは中央に通路があり、未舗装の歩道に面したところの左側に衣服とお菓子を扱うお店、その通路向かいに果物とアイスクリーム、中へ入っていくと左に乾物屋その向かいに魚屋といった具合です。
その隣のマーケットは同じく中央に通路があり、左に八百屋さん、右に果物と飲み物、その隣に駄菓子屋さん、その奥はもう記憶にありません。それぞれのお店に商店主が夫婦でいることが普通で、何とも人間くさい空間でありました。
買い物かごを下げて母は毎日の日課としてこのマーケットに通いました。道路の角を一回折れるだけで1分ほどの距離。料理中でもちょっと買い足しに走るということができました。私もお使いにときどき行きました。
遠足のおやつもここで買いました。それほど種類の多くない菓子の中から選び、予算の100円を超えないように選んで買ったものです。
学校が終わると母からいつも10円をもらい、奥のマーケットの入り口から二軒目にある駄菓子屋へ。駄菓子屋のことを当時は「くじや」と呼んでいました。くじがたくさん置いてあったからです。子どもが3人も入ればいっぱいになるような店。でもところ狭しと置かれたくじや駄菓子、小さなおもちゃは子どもの好奇心を引きつけるには十分でした。
くじは5円のものと10円のものがありました。10円持って行きますから5円のものを2種類ひくことが多かったように思います。大きな台紙にぶら下がった甘納豆の小袋。上の方には大小の袋がぶら下がり、小袋の甘納豆の中に入っている当たり券で大きな袋をもらうことができました。小袋が少なくなっているのに大小の袋がまだ多くぶら下がっているときは当たる確率が高くなります。でもなかなか当たるものではありませんでした。箱の中に入っている丸い飴のようなものを丸いビニール製チューブを押し込んで取り出すものもありました。取り出したものの色によって当たり外れが決まるものでした。箱から出ている多くのひもの中から選んで引き出すというものもありました。円錐形の飴がぶら下がって付いてきました。大きなものをつり上げると当たりということになります。ほかにもいろいろありましたね。
くじやさんの隣の飲み物を売っている店では、ラムネをよく買いました。おじちゃんがぽんと抜いてくれたよく冷えたラムネをその容器のからくりを楽しみながら飲んだものです。
それからときどき母が買い物に行っていたのが「ぶっしぶ」というところ。「ちょっとぶっしぶに買い物にいってくるね」と言って出かけていきました。「ぶっしぶ」が「物資部」であることを知ったのはかなり経ってからのことです。
すぐ近くに国鉄官舎がありました。5階建てほどの官舎が6棟並んでおり、私が通っていた学校にもお父さんが国鉄に勤めているという人が多くいました。その片隅に国鉄の物資部がありました。国鉄官舎の住人の利便性のためにお店が設けられていたのです。この店は一般の人たちにも開放されており、母も時々ここで買い物をしていました。スレートでできた平屋建てで今で言うお店らしいお店ではなく倉庫のようなところでした。内輪向けのお店でしたので外観はどうでもよかったのでしょう。
生活用品の販売の他に今で言うツアーの募集もときどき行っていたようです。母からの勧めで2回ほど参加したことがあります。
ひとつは霧島へのカブトムシ・クワガタとりと魚つかみどり日帰りツアー。小学生でしたが一人で参加しました。バスは中乗りタイプの国鉄バス。2台だったのか3台だったのか記憶はあいまいです。カブトムシやクワガタは全然とれなかったのですが、水を減らした養殖場の池で大きなこいを一匹つかみあげることができました。大きなビニール袋に酸素を注入し生きたまま持ち帰ることになりました。途中、霧島神宮前だったと思うのですが、ここでアイスクリームが配られたのを今でも鮮明に覚えています。やはり子どもにとって食べ物というのはインパクトがあるのでしょうか。持ち帰ったこいは早速父が庭でさばいてくれました。
もうひとつは燃島ツアー。燃島(もえじま)は桜島の北東,姶良カルデラの中にあり桜島の安永噴火(1779年)の際に海底が隆起して島となったものです。桜島の噴火に伴い出現した島なので燃島の名があるようです。新島(にいじま)ともいいます。また宝島という呼び名もあるようです。浸食が進み、次第に小さくなっていく島の様子から「消えゆく島」という異名もあります。小さいですが、人が住む有人島です。ここへの日帰りツアーです。今回も一人で参加。船は鹿児島港から出ました。漁船に毛が生えたような小さな客船。ちゃんと旅客用の船室がありました。こちらも2隻ないし3隻ほど出たと思います。船と言えば桜島フェリーぐらいしか乗ったことがない頃でした。いつもと違う場所を波しぶきを上げて進む小さな船旅を甲板上で楽しみました。燃島に上陸したことは確かな記憶としてありますが、そこで何をしたかの記憶の扉を開くことはできませんでした。
余計なつけたしが多くなってしまいました。今日では流通の変化で小さな生活圏ごとにあった個人商店が集まったマーケットはその多くが姿を消しました。もちろん国鉄物資部もその母体そのものがなくなってしまいました。
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