あの頃の鹿児島

2011年8月15日 (月)

あの頃の鹿児島(第13回)

遠くに見える山の上の団地から煙が。以前、消防団の方から火事の煙はすぐに分かる、といってその特徴を教えてもらったことがあります。今回の煙の様子はどうやら火事のようです。煙の量、そして煙が出ていた時間からするとかなり燃えてしまっているのではないかと思われます。やがて、白い煙に変わり、遠目には煙は確認できなくなってしまいました。

以前は近所でも火事はよくあるものでしたが、最近は少なくなってきました。それでも、たまに起こる火事は怖いものです。

久々に「あの頃の鹿児島」です。

鹿児島刑務所

 市営バス13番線の終点は原良小学校前。ここから先は区画整理が進まず、バスが通れる道もここまで。場所によっては乗用車が離合するのも難しいところも。この道を永吉方向へしばらく進むと右手に石積みの高い塀が現れます。住宅街の中に異次元の空間を作り出す立派な石塀は鹿児島刑務所。監視用の櫓様の建物も塀に沿っていくつか見えます。表に回るとそこには堂々たるアーチを描く石造りの門がそびえており、近づくのがためらわれるような雰囲気を醸し出していました。そして、その門へのアプローチが甲突川に架かる鶴尾橋。こちらも美しい複数のアーチを川面に映す石造り。伊敷町肥田から切り出した石を甲突川を用いて運び、刑務所と一緒に造られたものです。その先には市電などを利用してやってきた面会者が、受刑者への差し入れを購入していたという商店もありました。
 石の冷ややかさと独特の色合いによって、子ども心にその辺りに流れる空気まで違っているような感覚を受けました。塀の外側には道路との間に帯状の畑があり、畑仕事をしている人の姿がありました。その人たちが受刑者であることを知ったのは、しばらくしてからのことでした。また、新聞のチラシの中に刑務所での物品販売を知らせるものが年に1回程度だったでしょうか、入っていることがありました。安いからと、母はよく出かけていきました。
 移転に際して歴史的あるいは建築様式としての価値など高いと保存運動も起こりましたが、残念ながら撤去され、正面入口を残すのみとなりました。石橋の鶴尾橋も新しい橋に架け替えられています。鹿児島アリーナの建物は石造りだった刑務所の建物のイメージを大切にして設計・施工されており、その雰囲気、色合いはまさにあの頃の刑務所そのものです。

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2011年1月21日 (金)

あの頃の鹿児島(第12回)

鹿児島県日置市日吉町日置3314、なんとも南薩線の香りがしてきそうな住所です。これは今日封を切った焼酎に記されていた住所。小正醸造の「小鶴黄麹」を飲んでみました。CMでよく見かける焼酎です。独特の風味がありました。焼酎も醸造元や銘柄でずいぶん味が違うものです。これまで一つの銘柄を飲み続けることが多かったのですが、いろいろな銘柄の焼酎を楽しむことにし、酒屋で選ぶ楽しみもできました。

さて、あの頃の鹿児島第12回です。

大島紬の糸を干す

あの頃、町中には個人経営の小さな工場や作業場が多くありました。人の働く姿が身近な生活空間の中にあり、それを垣間見るのも子どもの頃の楽しみでありました。建具屋、表具屋、家具工場、製麺工場、畳屋、自動車工場など近くにたくさんの働き場を見ることができました。

そんな中、当時未舗装だった道路に支柱を立て、多くの糸をぴんと張って干す様子をあちこちで見ることができました。大島紬の糸を干す作業です。

大島紬は1本1本の糸が縦横に織られていったときに模様が浮き上がるようにあらかじめ縦糸と横糸が実に絶妙に染められています。設計図にあたる緻密な図面があり、それに基づいて16本ほどのりで固められた糸を締機(しめばた)を使って糸で締めた上で染めていきます。締めた部分は泥染めされません。白く残った部分は後で手作業で色をすり込んでいきます。これで出来上がった1本1本の糸を縦糸と横糸の交差を合わせながら文様になるように紡いでいきます。まったく気の遠くなるような職人芸です。

このような作業工程の中で、糸を必要な本数束ねてのり付けする作業があります。のり付けした後、ぴんと張って天日に干す作業が道路でも普通に行われていたのです。引っ張りすぎずまんべんなく天日に干す作業は、天気との兼ね合いを考えながらの熟練の作業だったそうです。また、染色が終わった糸ののりを洗い流し、その後干す作業もあったのではないかと思います。

大島紬の作業工程についてはあまり詳しく知りませんので、違っている部分があるかもしれません。

あの頃はあちらこちらでこのような光景が見られ、生活空間の中で伝統工芸品が作られていました。

大島紬の需要は年々減り、鹿児島にあった大手の工場も撤退し、マンションが建ったり量販店になったり…。産業道路沿いのビッグⅡの建物が大島紬の機械織りの工場だったということを知る人も少なくなってきているのではないでしょうか。

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2011年1月17日 (月)

あの頃の鹿児島(第11回)

まるで冷凍庫に入ったような寒さが続いています。温暖化で厳しい冬の寒さが感じられなくなった昨今、久々に子どもの頃の寒さを思い出しています。鹿児島市内でも霜柱が立ち、学校の大きな池にも厚い氷が張ることがある冬でした。今では氷が張るようなことはめったになくなっています。さて、そんな厚い氷が張っていた頃、あの頃の鹿児島第11回です。

鹿児島本線複線化工事の頃

昭和40年代前半、非電化単線だった鹿児島本線西鹿児島口の複線電化が行われました。その頃のことを思い出してみたいと思います。

自宅近くの新上橋。石工岩永三五郎が手がけた4連アーチの石橋新上橋があり、国道3号線には鹿児島市交通局の市電も走っていました。単線の築堤区間だった新上橋付近では複線電化工事が行われていました。列車の運行を行いながらの工事です。プープーという電子的な音が聞こえると間もなく列車がやってきました。列車接近を知らせる合図が工事区間では鳴り響いていました。やってくる列車はもちろん蒸気機関車牽引列車やDCなど。まだ、鹿児島本線でもC60やC61、D51が走っていた時代です。

自宅からほど近いところにあり、自転車で線路のあるところを訪ね回っていた頃ですので、今でも鮮明にあの「プープー」という音を覚えています。

小学生のとき、列車に乗っていく遠足が1回だけありました。列車好きな先生がいたのでしょうか。学校から西鹿児島駅まで徒歩で移動し、そこから列車に乗り込みました。中学年の頃だったと思います。西鹿児島駅のホームで列車が来るのをしゃがんで待っていたことを今でも覚えています。駅構内には架線を張る真新しいビームが設置されており、鉄道の近代化が着実に進んでいることを子どもながらに感じました。乗車したのはキハでした。1学年7学級から8学級ありましたので、300人ほど乗車したことになります。

途中、旧広木トンネルに入るときに右手に真新しいコンクリート製の大きなトンネル工事がなされているのが見えました。広木トンネルを抜けると広木信号場に停車。振り返ると先ほどの新しいトンネルの反対側が見えました。

帰りの列車は蒸気機関車が牽引する客車列車。大柄なカマでしたのでC61かC60だったと思います。

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2011年1月 7日 (金)

あの頃の鹿児島(第10回)

また寒波がやってきました。夜の11頃まで集まりがあり、寒い町を40~50分ほど歩いて帰ってきました。耳が切れそうな寒さは久しぶりです。さて、だいぶ間が空きました。久しぶりのあの頃の鹿児島です。

どんどん

網笠をすっぽりかぶり袈裟をまとった異様な格好をした人が、町中をドンドンと太鼓のようなものを打ち鳴らしながら歩いていました。虚無僧だったのか。子ども心にその姿は恐ろしく、どんどんが来たといっては逃げ回るものでした。遠くからどんどんが聞こえてくるとこちらへ来ないようにと祈るような気持ちでいました。どんどんは、家の入り口にくると向きを玄関へ変え、どんどんと打ち鳴らしました。初めはゆっくりと、しかし誰も出てこないとなると次第に大きく、そして早いテンポで打ち鳴らすのです。

自分の家の前で立ち止まり、こちらに向かってどんどん打ち鳴らされているときの恐ろしさ。そのどんどんという音のひとつひとつが心の奥まで恐ろしい音として響いてきます。恐怖で心臓の鼓動が早くなっているのが分かります。母が出て、お金を渡すとぶつぶつと言いながら、また次の家へと移っていくのです。

一番怖いのは、留守番をしているときにどんどんが来ること。遠くからどんどんが聞こえ始めると、こっちへ来ないかなと不安でいっぱいになります。だんだん大きくなってくるどんどん。窓を閉めたりカーテンを閉めたり、居留守を使うためにどきどきしながら準備をします。留守だと判断してそのまま行ってしまうことを祈りながら…。それでも家の前で立ち止まる気配がし、どんどんが始まります。怖くて怖くて押し入れの中で耳を押さえて小さくなっています。次第に大きくなりテンポが早くなってくるどんどん。まるで居留守を使っていることを見透かされて咎められているのでは思うほど、その音は恐ろしく響きます。

そんなに長い時間ではないと思いますが、恐ろしくて小さくなっている間は、それはそれは長い時間が感じられました。

いつの頃からか、どんどんは見かけなくなりました。あの頃の恐ろしい思い出です。

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2010年12月15日 (水)

あの頃の鹿児島(第9回)

今日は寒い日でした。ニュースで真冬並みの寒さと表現していました。もう12月も中旬、真冬とはいったいいつ頃を指すのだろうかと思うことでした。

さて、あの頃の鹿児島第9回です。

マーケットとぶっしぶ

今のようなスーパーはまだ近くにはなく、いわゆるマーケットと呼んでいた個人商店が寄り集まった木造の建物が二つ肩を寄せ合うように建っており、食材の調達はほとんどがここでした。

手前のマーケットは中央に通路があり、未舗装の歩道に面したところの左側に衣服とお菓子を扱うお店、その通路向かいに果物とアイスクリーム、中へ入っていくと左に乾物屋その向かいに魚屋といった具合です。

その隣のマーケットは同じく中央に通路があり、左に八百屋さん、右に果物と飲み物、その隣に駄菓子屋さん、その奥はもう記憶にありません。それぞれのお店に商店主が夫婦でいることが普通で、何とも人間くさい空間でありました。

買い物かごを下げて母は毎日の日課としてこのマーケットに通いました。道路の角を一回折れるだけで1分ほどの距離。料理中でもちょっと買い足しに走るということができました。私もお使いにときどき行きました。

遠足のおやつもここで買いました。それほど種類の多くない菓子の中から選び、予算の100円を超えないように選んで買ったものです。

学校が終わると母からいつも10円をもらい、奥のマーケットの入り口から二軒目にある駄菓子屋へ。駄菓子屋のことを当時は「くじや」と呼んでいました。くじがたくさん置いてあったからです。子どもが3人も入ればいっぱいになるような店。でもところ狭しと置かれたくじや駄菓子、小さなおもちゃは子どもの好奇心を引きつけるには十分でした。

くじは5円のものと10円のものがありました。10円持って行きますから5円のものを2種類ひくことが多かったように思います。大きな台紙にぶら下がった甘納豆の小袋。上の方には大小の袋がぶら下がり、小袋の甘納豆の中に入っている当たり券で大きな袋をもらうことができました。小袋が少なくなっているのに大小の袋がまだ多くぶら下がっているときは当たる確率が高くなります。でもなかなか当たるものではありませんでした。箱の中に入っている丸い飴のようなものを丸いビニール製チューブを押し込んで取り出すものもありました。取り出したものの色によって当たり外れが決まるものでした。箱から出ている多くのひもの中から選んで引き出すというものもありました。円錐形の飴がぶら下がって付いてきました。大きなものをつり上げると当たりということになります。ほかにもいろいろありましたね。

くじやさんの隣の飲み物を売っている店では、ラムネをよく買いました。おじちゃんがぽんと抜いてくれたよく冷えたラムネをその容器のからくりを楽しみながら飲んだものです。

それからときどき母が買い物に行っていたのが「ぶっしぶ」というところ。「ちょっとぶっしぶに買い物にいってくるね」と言って出かけていきました。「ぶっしぶ」が「物資部」であることを知ったのはかなり経ってからのことです。

すぐ近くに国鉄官舎がありました。5階建てほどの官舎が6棟並んでおり、私が通っていた学校にもお父さんが国鉄に勤めているという人が多くいました。その片隅に国鉄の物資部がありました。国鉄官舎の住人の利便性のためにお店が設けられていたのです。この店は一般の人たちにも開放されており、母も時々ここで買い物をしていました。スレートでできた平屋建てで今で言うお店らしいお店ではなく倉庫のようなところでした。内輪向けのお店でしたので外観はどうでもよかったのでしょう。

生活用品の販売の他に今で言うツアーの募集もときどき行っていたようです。母からの勧めで2回ほど参加したことがあります。

ひとつは霧島へのカブトムシ・クワガタとりと魚つかみどり日帰りツアー。小学生でしたが一人で参加しました。バスは中乗りタイプの国鉄バス。2台だったのか3台だったのか記憶はあいまいです。カブトムシやクワガタは全然とれなかったのですが、水を減らした養殖場の池で大きなこいを一匹つかみあげることができました。大きなビニール袋に酸素を注入し生きたまま持ち帰ることになりました。途中、霧島神宮前だったと思うのですが、ここでアイスクリームが配られたのを今でも鮮明に覚えています。やはり子どもにとって食べ物というのはインパクトがあるのでしょうか。持ち帰ったこいは早速父が庭でさばいてくれました。

もうひとつは燃島ツアー。燃島(もえじま)は桜島の北東,姶良カルデラの中にあり桜島の安永噴火(1779年)の際に海底が隆起して島となったものです。桜島の噴火に伴い出現した島なので燃島の名があるようです。新島(にいじま)ともいいます。また宝島という呼び名もあるようです。浸食が進み、次第に小さくなっていく島の様子から「消えゆく島」という異名もあります。小さいですが、人が住む有人島です。ここへの日帰りツアーです。今回も一人で参加。船は鹿児島港から出ました。漁船に毛が生えたような小さな客船。ちゃんと旅客用の船室がありました。こちらも2隻ないし3隻ほど出たと思います。船と言えば桜島フェリーぐらいしか乗ったことがない頃でした。いつもと違う場所を波しぶきを上げて進む小さな船旅を甲板上で楽しみました。燃島に上陸したことは確かな記憶としてありますが、そこで何をしたかの記憶の扉を開くことはできませんでした。

余計なつけたしが多くなってしまいました。今日では流通の変化で小さな生活圏ごとにあった個人商店が集まったマーケットはその多くが姿を消しました。もちろん国鉄物資部もその母体そのものがなくなってしまいました。

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2010年11月29日 (月)

あの頃の鹿児島(第8回)

非冷房市営バスの頃

鹿児島市内に住んでいましたので市営バスにはずいぶんお世話になりました。市営バスに関する私の記憶で最も古いものは鉄道の腕木式信号機のごとく、パタンと横に指示器の腕が飛び出すもの。実にアナログな構造です。

小学生の頃、基本運賃は大人30円、子ども15円でした。現在は大人180円、子ども90円。時代を感じます。この頃の市営バスについて記憶をたどってみます。

塗色は若草色に黄土色、茶色系、それに白のラインを加えた少々凝ったもの。つい最近までこの塗色のバスが走っていましたが、最近では見かけなくなりました。シートを貼り付けてのデザインが主流になった昨今ですが、当時よくあんな複雑な塗り分けを塗装で行っていたものだと思います。

車体はリベットいっぱいのモノコックボディ。乗車口は引き戸タイプ。窓はもちろん上部に明かり取り用の窓がHゴムで固定されたいわゆる「バス窓」。座席は2名分を分割しない一体型でモケットではなくビニール仕様。床は木製。木製の床には腐食防止のため油が染みこませてあり、その臭いがバスの臭いでもありました。

運転手に降車の意思を知らせるボタンは緑色だったでしょうか。現在のようにボタンそのものが光るつくりではなく、運転席後ろの仕切り上部にある緑色の行灯が「チン」というアナログ音とともに点灯するつくりでした。

サスペンションは板バネ。サスが硬くダダンと突き上げるような衝撃が車体全体に伝わり、木製の床が共鳴し、座席がぶるんと震え、窓枠がカタカタと音を立てる。市電の軌道敷を通過するときの衝撃はなかなかのものでした。

もちろん冷房はなし。夏になると窓全開。窓からは太陽で熱せられた空気、排気ガス、そしてオイルの臭いが入り込んできました。市内のバスには冷房などないのが当たり前の時代でした。今のバスに比べると外からの砂埃などで車内が汚れていたように思います。

市営の路線バスに冷房車が登場したのは平川動物公園が開園したとき。鴨池動物園から移転した平川動物公園は鹿児島市内中心部からかなり距離がありましたので、バスの乗車時間も長くなります。そのためサービス向上が図られ初の冷房車登場となったようです。その頃一大勢力になっていた西日本車体工業のかまぼこスタイルのバスでしたが、冷房効率をあげるため色ガラスを使っており外から見ると窓が青っぽく見えました。他の市営バスが窓全開にして走っている中ですべての窓を閉め切り、涼しそうな青色の窓を誇らしげに走る姿は一目で動物園行きのバスだと見分けることができました。

続いて路線に登場した冷房車。それは貸し切り格下げの車でした。市営バスでは現在と同じように定期観光バスの運行や貸し切り運行をおこなっていましたので、観光バスタイプのバスを持っていました。観光バスの車輌更新の際に、古い観光バスに中扉を改造新設して路線に転用しました。中扉部分とワンマン機器以外は観光バス時代そのもので、横引き大窓にずらっと並んだロマンスシート。車体は西日本車体工業のこれもかまぼスタイル。塗色も路線の一般車と観光バス時代から同じでした。

幸い、私がよく乗る路線に投入されることが多く、運良く乗れると嬉しいものでした。他のバスが非冷房車ばかりの中で、冷房用の補助エンジンを駆動しちゃんと冷房を入れてありました。

格下げ車投入直後の頃、こんなことがありました。

冷房を効かせながら走っていた盛夏。ある停留所でご婦人二人の待つ姿を認めて停車、中扉の折り戸が開きます。ステップに一歩足を踏み入れたご婦人は驚いた表情で「うんにゃ、こいは市営バスじゃなか(少々鹿児島弁)」と後ろのご婦人へ。標準語に直すと「いいえ、これは市営バスではありません」といった意。運転手がすぐに「市営バス○○番線、○○行きです。どうぞご乗車ください」と応え、おそるおそる乗車するお二人。

冷房が効いていたこととずらっと並んだロマンスシートに驚いたようです。

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写真は交通局に並んだ当時のバス。同じように見えますが、手前から日野自動車、日産ディーゼル、三菱ふそうのバスです。いずれも車体は西日本車体工業製。(許可を得て入場)

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2010年11月21日 (日)

あの頃の鹿児島(第7回)

今日は日曜日でしたが、一日仕事でした。おまけに夜は懇親会。丸一日、プライベートな時間はまったくない一日となってしまいました。明日はその振り替えでお休みになります。天気予報がさえないのが残念。少々、いえ、かなりお酒が回った身で何をするか現在検討中です。ということで、これ以上記すことができない状態なので、書きためておいたあの頃の鹿児島第7回をば、ご笑覧ください。

宣伝飛行

ちんどん屋さんが小さな商店街でも宣伝のためににぎやかに闊歩していた頃、昭和らしいアナログな光景があちこちで見られました。映画「三丁目の夕日」的な光景でしょうか。

新装開店などの宣伝は今でしたらテレビやチラシなどで行っていますが、あの頃はそれに加えて宣伝飛行が行われていました。軽飛行機が上空を旋回しながら拡声器を使って地上へ向けてメッセージを流します。飛行機のエンジン音、そしてスピーカーから流れる音声が気流の関係なのかドップラー効果なのか独特の抑揚を伴って耳元に届きました。そんなに長時間同じ場所を飛行するわけではありませんが、結構な音量で世間を騒がせることになります。

鹿児島市内への宣伝飛行を見かけなくなった後も地方へ行くとまだ見かけることがありました。市の条例か何かで規制されるようになったのかもしれません。今となっては空から一斉に広範囲にわたって垂れ流す一方的な宣伝は明らかに社会にとって迷惑な行為

そんなに前のことではありませんが、選挙の棄権防止を訴える広報飛行を行っていました。まだ宣伝飛行そのものはあるのでしょうか。

宣伝飛行と同時に行われていたのが、今では考えられないことですが、飛行機からビラをまくこと。拡声器で宣伝をしながら紙吹雪のように飛行機から無数の紙切れが宙を舞います。ひらひらと地上に落ちていくビラの落下範囲を予測しながら拾いにいったものです。上空ではあれだけ多くのビラが舞っている様子が見えるのですが、いざ地上に舞い降りたものを探すとなるとこれが至難の業。なかなか見つかるものではありませんでした。

写真は参考。最近の写真にイメージとして加工を施してあります。

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2010年11月16日 (火)

あの頃の鹿児島(第6回)

ツーマンバスからワンマンバスへ

現在ではワンマンバスは当たり前で「ワンマンバス」という言葉自体が意味あるものとして使われなくなってきています。一方で列車のワンマン化は地方閑散路線で進行中で、ワンマンであるかどうかで開くドアの位置や整理券の受け取り、降りるときに運転席側の扉からお金を払って降りるなど、普通の列車とは利用方法がかなり違ってきます。私も日豊線のワンマン列車にローカル駅から乗り込むとき、乗車しようと思った扉が開かず慌てたことがあります。また、お金を払うときバスのように直接料金箱に入れようとしたら運転士に渡すようにとちょっときつい感じで注意されたことがあります。確認する目的だったと思いますが、疑われているようであまりいい気持ちはしませんでした。放送では「運転席横の料金箱に…」と流れており、従ったまでなのですが。よって列車においてはワンマンという言葉は利用者にとって大いに意味ある言葉として使われています。

前置きが長くなりましたが、ワンマン化される前のバスは車掌さんも乗務するツーマン運行。鹿児島市内からバスで1時間ほどのところに祖父の家があり、休日よく連れて行ってもらっていました。里山の風景が美しく、絵に描いたような日本的な風景が広がる場所。山や野、川遊びを大いに楽しみました。まだ小学校低学年のときでした。一人で祖父のところへバスで泊まりに行くことになりました。南国日生ビルまで親に連れて行ったもらいそこでモノコックボディの南国バスに乗り込みます。扉は中央のみの1箇所。扉のすぐ後ろには女性の車掌さんが乗務されています。母は車掌さんに一人で子どもを乗せることと降車停留所を説明し、よろしく頼むと伝えバスの出発を見送ります。

バスは市街地を抜け、錦江湾沿いの国道を北上。車掌さんは停留所の案内をしたり切符を発行したりします。首から下げた大きながま口のような車掌鞄と紺色の制服姿が子ども心にも輝いて見えました。車掌さんは扉のすぐ後ろの車掌スペースで腰部分を支えるパッドに身をゆだねながら立っての乗務です。やがて目的の停留所が近づき、車掌さんのすぐ後ろの席に座っていた私は車掌さんに次降りることをどきどきしながら伝え、降車したのでした。日生ビル1階は南国交通のバスセンターになっていましたので、切符はあらかじめ買っていたのだと思います。小さくなるバスの後ろ姿を見ながら、子ども心になんだか大きなことをやり遂げたような気分になっていました。

ワンマン化が進むころになると緑色のワンマンという表示がバスにつけられるようになりました。ワンマンという言葉は、犬が吠えているような音で、ワンマンが英語であることはよく分からない子どもでしたからどうも違和感のある言葉として響いていました。料金箱は導入当時はどのような機器だったか分かりませんが、電動式のものが入るまでは運転手さんが投入後のお金と整理券をトレイ上で確認して、パタンとトレイを反転させて中に落とし込む構造。おつり用のコインが不足してきたからお金はここに置いてくださいと終点でお願いする運転手さんがいました。乗客は言われたままにするのですが、後にそのような方法で料金を料金箱に入れさせずに着服していた人がいたということで事件として報道されたことがありました。

ワンマン化が進む中で市営バスでもかなり後までツーマン運行だった路線もありました。1番線などがそうだったと記憶しています。前に扉のない中扉のみのバスで運行されていました。確認用なのでしょうか、前扉があるべき部分に小さな窓があったように思います。

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2010年11月11日 (木)

あの頃の鹿児島(第5回)

デパートの模型売り場

鹿児島の老舗デパート、山形屋。中4階と呼ばれる3階から4階の1フロア分の高さを2等分したような天井の低いフロアがあります。ここは子どもにとって聖地。おもちゃをはじめとする子ども向け商品が並べられています。当時は広いと思っていたフロアも今自分の子どもを連れて訪れてみるとそれほどでもありません。いつの間にかこんな年齢になってしまったんだなあと通り過ぎた年月に驚いてしまいます。

ここには鉄道模型売り場があります。現在でもありますがNゲージのみ。あの頃はまだNゲージは一般的ではなく、もっぱら16番の模型が主流。その16番の模型も三線式Oゲージに比べればコンパクトな模型と見られている時代でした。

鉄道模型コーナーといってもショーケース一つか二つのこぢんまりとしたもの。それでもこのコーナーだけは羨望の的。おもちゃではなく、模型ですから。商品に着けられていた正札も周りのおもちゃに比べれば桁違いに高価なものでした。

一番下の段にはフレキシブルレールでひょうたん型のエンドレスが作ってあり、いつもこの線路を模型が走っていました。ショーケースの中の急カーブをカツミの自由形EB58やEB10、EB66などが二軸貨車の単編成を牽いて走り回っていました。ガラスが音を遮断し、静かに走り回っていた印象があります。

その上の段にはカツミやエンドウの模型が蓋を開けられた状態で平積みで陳列されており、機関車だけは短く切ったフレキシブルレールの上に箱から出され格好良く並べられていました。加えてパワーパックやレール、それに信号機やストラクチャーなど、それを眺めるのが山形屋に行ったときの楽しみ。まだカツミやエンドウから出されている車輌の数がそれほど多くない時代でしたのでこれで用が足りるのでした。

ここで初めて買ってもらったのはカツミの入門セット。これで鉄道模型を始めた同年代の人も多いのではないでしょうか。EB58に自由形の2軸客車が2両。16本組のR600の金属道床のレール、それに無電区間のあるパワーパック。素早く次の接点までつまみを回さなければ無電区間で列車が止まるという代物でした。

今思えばプラレールが金属製になったぐらいの模型です。しかし、そのずっしり手応えのある箱の重さに鉄道模型を買ってもらった喜びと誇りが凝縮されていたように思います。

実際に運転をすると手元で機関車の速度をコントロールできる喜び。電池式でなく動力代を意識せずに長時間運転できる喜び。機関車からにおうかすかな油の香り、パワーパックが発する電気的なかおり、線路の継ぎ目で実物同様に奏でるジョイント音。それはまさにおもちゃではなく模型の世界でありました。

話は山形屋の鉄道模型売り場に戻ります。当時はフレキシブルレールやコルク道床、モーター、米粒球などのパーツも置いてありました。また、月刊誌鉄道模型趣味をはじめとする機芸出版社の出版物もあり、初期の頃はここで鉄道模型趣味は購入していました。また、レイアウトモデリング、レイアウト全書、レイアウトテクニックといった当時のレイアウトづくりのバイブル的な本もここで購入しました。

ここで鉄道模型を購入するとお決まりの走行チェックをします。フレキシブルレール1本分の試験線の上でチェックが始まるといつの間にか近くにいた人たちが珍しそうによってくるものでした。ブリキ製の2軸貨車を購入しても転がりチェックをしてくれました。

後に天賞堂の蒸気機関車なども扱うようになり、初めて目にした超精密な模型とその高額な価格にため息が出た思いがあります。その頃にはNゲージの模型も少しずつではありましたが本格的に製品化されるようになり、16番の模型はブラスモデルとして高級化の道をたどり、私たちの手の届く模型ではなくなっていきました。そのような時代の流れの中で16番の扱いがなくなり現在のようなNゲージだけの品揃えへと変わっていきました。

地元には山形屋の他に丸屋と高島屋がデパートとしてありました。丸屋にも一時期鉄道模型コーナーがありました。こちらは確かメルクリンのシステムだったと思います。外国の模型には興味がありませんでしたので、あまり行くこともありませんでした。

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2010年11月10日 (水)

あの頃の鹿児島(第4回)

書店

鹿児島市内にもようやく大型書店が複数出店するようになりました。それまで鉄道関係の本はわずかしか目にすることがなかったのですが、鉄道書籍コーナーが置かれその充実ぶりには目を見張りました。しかし、店内のレイアウト変更のたびに鉄道コーナーが縮小しているようで鹿児島のテツ人口はそれほど多くないことの表れなのでしょうか。

あの頃は、個人経営の小さな書店が各地の商店街ごとにありました。しかし、鉄道専門誌などを購入するとなると天文館界隈の書店まで足を伸ばさなければなりませんでした。割と規模の大きな書店は天文館アーケード近辺に集中しており、はしごをするものでした。

最も大きかったのは春苑堂。3階建てで1階が雑誌や新刊書などで2・3階が参考書や専門書。1階の雑誌コーナーでは鉄道誌をよく購入しました。後に電車通り沿いの天文館バス停前に支店を出しました。金海堂は当時、平屋の建物。私が初めて自分で買った鉄道誌はこの店でした。朝日新聞社発行の「世界の鉄道」。C55とC57、そして客車が特集されているものでした。まだ蒸気機関車も現役の頃で最新の客車も12系。南薩線の客車も現役のものとして紹介されています。久永金光堂、あまり大きくない店でしたが、桐原書店発行「ローカル線をいく」シリーズはこの店でほとんどを購入しています。穴場的な店でした。吉田書店、鹿児島では老舗です。地下1階地上2階で店舗はあまり広くありませんでしたが、地下には小さいながら鉄道本を並べているコーナーがありました。

この頃の鉄道情報はインターネットがある訳ではなく、また鉄道関係雑誌も限られ、そう多くはありませんでした。ですからむさぼるように見たものです。

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